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上地哲の沖縄事典 (おきなわ自転?)最新情報はFacebookで
by UECHI
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米軍ヘリ墜落から6年の沖国大

 来月の13日で墜落事故から6年目になる。
米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_1430862.jpg 焼け爛れた木が当時のままモニュメントとして残る。建て替えられきれいになった本館の前に咲くプリメイラの花は陽の光に輝いていた。モニュメントの傍には当時の焼け跡を写真パネルで残してある。米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_14303289.jpg
米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_1432293.jpg
当時の模様は沖国大のホームページに紹介されている。(現場写真は宜野湾市消防本部の撮影による)
米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_1450372.jpg米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_14503123.jpg米軍ヘリ墜落から6年の沖国大_f0014164_14505172.jpg
 危険性は無くなったわけではない。また、危険なのは普天間基地だけではない。アフガニスタンやイラクで日々殺戮が繰り返され、その状況を維持するために沖縄で繰り広げられる軍事演習がある。沖縄に駐留する海兵隊は半年毎に中東と入れ替わるという。「東アジアの安全保障のため」という看板を掲げている米軍や日本政府にとっては、中東もまた「東アジア」の範疇に入るということか。
 今でも嘉手納基地の米軍機は自宅の真上を通過する。パイロットの顔が見えるほどの超低空で轟音を響かせ家を震わせて何度も通過する。彼らには一切の協定も飛行ルートの設定も無関係だ。
 50年前の当時の石川市の宮森小学校へ墜落し17人の命を奪った米軍戦闘機の墜落事故当時、5歳だった私は事故の翌日親戚の安否を確かめに祖母と現場へ行った。まだ煙の燻るキナ臭い


















小学校の様子は今でも忘れられない。
中2の時のB52の爆発炎上の恐怖は今も記憶に鮮明だ。1968年嘉手納基地で墜落したB52戦略爆撃機はベトナムで落とす予定の爆弾を満載していた。数百メートル先には核兵器や毒ガスが貯蔵されていた弾薬庫があり、一歩間違えれば沖縄は確実に地上から消えてなくなっていただろう。爆音に起こされた未明の恐怖は、忘れられない。ただ、この爆弾で殺されたかもしれない多くのベトナム人が助かったと思うこともある。
 高3の時の毒ガスが校庭を襲った時の恐怖も、ベトナムの人たちの日々の恐怖の僅かな一端でしかなかったことも、子供ながらに私たちは“実感”していた。
 そして今、非戦闘員の非武装の人たちが当たり前に殺されるアフガンやの人たちの恐怖と怒りへも、思いを馳せることはできる。それができない日本政府や多くの日本人は沖縄に基地を固定化する理由を「“安保”で自分たちが守られているんだ」と思い込み、しかたないと言う。「沖縄だって、ほんとは基地があるからお金がもらえるんだから」と平気で言う。
 「思いやり」という日本語はとても美しい優しい言葉で、他人(ひと)に対して、自分の“思い”を遣る、相手の身になる、という素敵な日本の思想だ。それが失われた現代の政治や世相は、あまりにも悲しい。米軍の沖縄や日本国内での駐留に関わる費用は「思いやり予算」と言われ、国民の税金でまかなわれている。殺す側への「思いやり」があり、殺される側への「思いやり」は微塵もない。 
 沖国大の6年前の惨劇は、沖縄で過去にも繰り返されてきた、いつどこで起こってもおかしくない事故である。
 日本政府と国民の大半は、今後も沖縄は基地と共存するべきと考えている。この大きな温度差は長い歴史の中でも、一向に埋まらない。悲しい現実である。

by s.t.uechi | 2010-07-13 21:20 | 沖縄事典
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